ジャーナリングを書き始めて2年半経つ。書いていたって特に日常に変化はないし、これといって良いこともない。
ではなぜ書き続けているのか。
やめられなくなった。
それが一番の理由な気がする。
書かないと気持ち悪い。なにを「歯を磨かないと気持ち悪い」、みたいなこと言ってんだ。とも思うが、感覚的には同じ類。習慣化なのだ。
子育てや仕事、家事、寝かしつけが忙しくて、気がつけば寝落ちしている。1日、2日書かないこともある。それでもまた書く。それはなぜなのか?きっとどこかで今の生活とは違う毎日を求めているんだと思う。自由になりたいんだと思う。
でも、自由ってなんなんだろう。
ぼくは自分で選択できる状態だと思う。8時に工場へ行って段取りを組む。ユニフォームも決まっていて髪型もそれなりのルールに従う。お昼ゴハンは12時~13時。休憩が終わったら15時まで働いて少し休憩。そして17時まで。
こんな毎日。別に悪くはない。
こんな毎日に幸せを見つけられる人もいると思う。
でもそれよりも、明日ハワイに行きたい。いややっぱやめて家でゴロゴロしよう。いややっぱりアイスランドにしよう…!そんな毎日を作ってみたい。その毎日を作るのは一体誰なのか。ぼくなんです。
そんな毎日を作れるぼくでありたい。
だからジャーナリングを書きやめないんじゃないか、何ていうのが今のところの本音。
だから、ジャーナリングそのものに最初から決まった意味なんてない気がする。
強いて言うなら、「こうなってみたいなっていう自分になれそう?」っていう確認作業。今日やったこと、やらなかったことが「こうありたい自分」とつながってるか。いやそんなことは思いもせず無自覚に振るまっていたのか。みたいな、なんていうかちょっとした客観性をもつのにジャーナリングが手助けをしてくれている。
もちろん全く書きたくない日もある。ほんとにマジで書きたくない。
そんなときは「ジャーナリングなんて、やってて意味あんの?」とか書く。そこから言葉が湧いてきたら続けるし。なければそこで終わり。なんなら1文字も書かない日もある。空白。勝手ではあるけれど、ぼくはジャーナリングは自分とつながるための手段だと思っている。書かないことで自分を表現して納得できるなら、ぼくにとっては空白も1種のジャーナリング。
無理やり「それっぽく正しいこと」を書くよりもよっぽど有意義。ちなみに瞑想でもいいと思う。ただ、ジャーナリングだと記録として残せる。なので後から読み返したときに、「あ、そう言えばこんなこと思ってたな」「この問題、結局どうでも良かったな」と新たな発見が生まれる。そこが瞑想とは少し違うところ。
瞑想は感覚。ジャーナリングは記録。「なんで書いているのか」それはたぶん、これからも変わる。意味なんて、あとから自分で見つければいい。